はじめまして!Hiroです!
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群馬の片田舎で誕生。

名付けの親は昔からお世話になっていた地方でも有名だった霊媒師のばあちゃんだと親から聞いている。
周りの人達からの信頼も厚くて、原因不明の病や悩みを抱えた人を手助けする活動をしている人だった。
実家は夫婦で農業を営む家庭に生まれ育つ。
見渡すかぎり畑と田んぼだらけしかない田舎。
両親は毎日仕事で決まった休みも無く、家族で旅行や遊びに出掛けた記憶はそれほどない。
記憶に残っているのは小学生の頃に幼馴染の家族と一緒に栃木の那須に旅行に行ったぐらい。
姉、兄、僕の3人兄弟。
昔から姉とは普通に会話をするが、兄とは基本口は聞かない。
幼い頃は兄の背中を追っかけていた時期もあったがその度に突き離され続けたからだ。
また、何かをやるにしても兄は一番目。面倒な事があると弟の僕に押しつけてきた。使う物も兄のお下がりが多かった。
そんな些細な事が積もりに積もっていき自分の中に深い溝ができはじめて、いつしか兄とは話す事さえもしなくなっていた。
父の存在

うちの親父は祖父母とは犬猿の仲だった。
よほどの事がない限り親父は会話もせず、近づく事さえしなかった。
親父は長男という理由で本人の意思関係なく家業を継ぐ以外に選択肢をもらえなかった。
小学生の頃から登校する前、帰宅した後と家業の手伝いをさせられて自由がなかったみたい。
だから絶対に自分の子供達には同じ思いはさせたく無かったらしく家業は継がなくていいから自分の人生やりたい事をやれ。とよく言っていた。
祖父に指図される生活にもう耐えられなかった親父は、社会人になるまでにかかった学費、養育費などの費用を計算し、借金までして全額親に返金したというから驚きだ。
こんな人生歩まされたんだから神様は次こそ自由で裕福な家庭に生まれさせてくれるだろ。と冗談混じりで言っていた。笑
味わってきた人生を笑いながら色々と語ってくれた親父。
子供達の為に人生を捧げてきてくれた親父。
いつか稼げる立派な男になって普通以上の親孝行をしたいと思うようになった。
物心もつかない幼少期

当時、何を思ったのか実家の客間に置いてあった水銀入りの温度計を噛んで割ってしまった事があった。
僕が割れた温度計を手に持ちながら泣いているところを親父が発見したらしい。
親父は僕が中の水銀を誤って飲み込んでしまったのではないかと焦り、急いで救急車を呼び病院に運ばれた。
必死な顔した親に抱えられ救急車まで運ばれたシーンはなんとなく今でも記憶には残っている。
祖父といる時に何かの拍子でバランスを崩し机の角に顔面を強打して右瞼を3、4針縫う怪我を負う。
医師から少しでもあたり場所が悪かったら失明してたと言われたようだった。
左頬の骨も強打して骨折。
左肘も二回骨折。
硝子の扉に突っ込み太ももを縫う怪我。
熱湯の入った容器を太ももにこぼし大火傷。
本当怪我ばかりしていた。
小学生の頃は兄とサッカーチームに入部していた。僕はゴールキーパーを任されていたが、小学5年の時に監督が変わりやる気がなくなる。
メンバーには引き止められたが結局辞めてしまった。
中学に入学して部活をどーするか考えていた時、仲間が「また一緒にサッカーやろう!うちのチームのキーパー頼むよ!」と仲間達から誘われた。
あの時は正直嬉しかった。
また仲間達とやりたい気持ちはあったが、年子の兄と同じ部活に入部してやっていくというのが嫌で入部はしなかった。
器械体操に興味を持ったため体操部に入部する事にした。
器械体操のコミック漫画に影響された事もあり部員達と競い合いながら毎日練習していた。
誰よりもうまくなりたい一心で体操にのめり込んだ。
先輩方も数々の大会で実績を残したりしていて憧れるようになった。
中学3年になり部長を任されるようになり、地方の大会で入賞するまでになれた。
なんだかんだで部活だけは真剣に取り組んでいた中学時代。
縛られ続けた高校時代

幼い頃に思い描いていた夢も忘れ去り、自分の将来の事なんて真剣に考えてもいなかった。
卒業後は就職して早くお金を稼げるようになりたいという理由だけで工業高校に進学する。
地元ではヤンキー、不良生徒が多く偏差値の低い高校だと言われていた。
縛られるのが嫌いな僕の頭の中では、
『不良生徒が多い=学校の規則は緩い=自由な高校。工業高校は就職にも有利だろうからいいじゃん!』
と、選んだ理由は単純で馬鹿で浅はかな考えだった。
期待に胸をふくらませた入学式当日
学ランの第1ボタンをとめ忘れたという些細な事で、担任に廊下で怒鳴られ高校生活がスタートする。
男女共学高校なのに学年にまさかの女子が一人。
教師に逆らうと即謹慎で強制丸坊主。
謹慎中は早朝に登校し校庭を朝マラソン。
自分が思い描いてた高校生活とは真逆だった。
想像以上に厳しく、規則に縛られて青春なんてものこれっぽっちも無かった。。
なんでこんな高校来ちまったんだ…。
と後悔しかなかった。
他の高校に通って楽しくやっている友人達の姿がすごく羨ましく見えた。
免許を取りストレス発散でバイクを乗り回したりした。
夜中に家を抜け出しては遊び呆け警察のお世話になったりした事もあった。
そんな事ばかりやっていたら過度のストレスが原因なのか親父が円形脱毛になってしまった。
高校生活にはいい思い出がない。
こんな事もあった。
高校2年の全校集会で体育館に集まった時の事。中央にプロジェクターが置いてありその前にパイプ椅子が置いてあった。
集会が始まるまでの間その椅子に座って友人と話をしていた時。
ドン!とパイプ椅子を蹴られた感じがしたので友人かと思い振り返ったら教師K(生徒の中では有名だった問題の教師)が立っていた。
面倒な事になるのは嫌だったのですぐに謝罪をした。
しかし、人の顔を見て笑っただの言いがかりをつけられる。
急に胸ぐらを掴まれ、振り回され壁に体を叩きつけられた。投げ飛ばされ髪を掴まれ、体育教官室まで連れて行かれた。
この教師も含め普段体育の授業とは一切関係ない教師が溜まり場のように使っていて生徒を職員室ではなく何故か体育教官室に呼びつけては叱っているというのが日常茶飯事だった。
これまでの高校生活の中で一度もこの教師とは関わる機会は無かったし関わりたくも無かったがこの日を境に今度は僕が目をつけられてしまったと思った。
部屋の中に入ると壁の前に正座させられ、「俺はおまえの事絶対許さねーから覚悟しとけよ!」と顔面に顔を近づけて睨んで脅してきた。
ずるずると部屋に何人も教師が集まってきた。
教師Kに殴る蹴るをされて、後ろの壁に何度も頭を強打した。
事情も何も知らない他の教師が入ってきて「お前はもう謹慎じゃなくて退学にするから今すぐ校長室に退学届出しに行くぞ!」と言われ腕を掴まれて強制的に校長室に連れて行かれそうにもなった。
担任も、周りの教師も何を言っても聞く耳持たずで全てお前が悪いの一点張り。<
止めようともせずに見ているだけだった。
人目のつかない部屋に連れ込み囲んで力で押さえつける。
これが教師のやる事かよ。と憤りしかなかった。
頭も身体も痛かったので後日病院に行く事にした。
事情を説明すると医師も教師にやられたと聞いて呆れている様子だった。
全身打撲、一週間から2週間の絶対安静と書かれた診断書を渡された。
「泣き寝入りなんかしてないで一度教育委員会に連絡しな!」と言われた。
もう高校は辞めるつもりで数日間休んでいたけれど、納得いかない事だらけだった事もあって試しに電話してみることにした。
後日、校長が慌ててその教師を連れて実家まで謝罪にきたみたいだ。
校長に登校して校長室まで来て欲しいという伝言をもらったので、嫌々ながらだが登校し校長室に向かった。
校長に診断書を渡したら手を震わせながら診断書を読んでいた。
その後は毎日の様に教師Kが校内放送で校長室に呼び出されていた。それ以降この教師と関わる事はなかった。
その後は平凡な高校生活を送りながら就職活動し、企業の内定をもらい無事に高校を卒業した。
この高校に入学できて良かったと思う事は特にないが、友達の輪が広がった事だけは良かったと思う。
そして晴れて社会人になった。

高校から就職した会社は嫌で2ヶ月で即退社し、その後は知人の会社でアルバイトとして働いていた。
成人になり、とりあえず正社員になっておこうと思い求人で見つけた町工場に勤める事にした。
給与もそれなりに良かったのでそれを理由に仕事を選んだ。
僕が入社した会社はワンマン社長で設備投資にばかり力を入れている会社だった。
会社の借金を車内の噂で耳にした時は驚いたが、給与はしっかりと払われていたので気にはしていなかった。
会社は商品の値段がウリらしく不景気になると周りの同業の会社の仕事が価格が安いうちの会社に流れて来るから問題ない!不景気こそチャンス!と社長は毎日のように豪語していた。
入社1年目にしてリーマンショックを味わう事に

社長の話を聞いていたせいかそこまでの心配はしていなかった。
しかし毎日会社に通っているうちに日に日に顧客からの注文も減っていき仕事量が手薄になる。
会社の売り上げも落ちて業績も悪化し、銀行も追加融資を渋りだしたみたいで倒産寸前まで追い込まれそうにもなった。
週休3日になり、給与もカットされ年配の方を対象に次々とリストラ。。
給与が大幅に減る日々が数ヶ月ほど続いた。
あの日負った傷

とある繁華街に行った時の事、店の入り口の前で待っていた時、店の中から出てきた客らしき三人組の男に難癖をつけられる。
店の外で無抵抗のまま殴る蹴るされ歯を折られ額を7針縫う大怪我一生残る傷を負わされた。
人前で見世物にされ、無抵抗のままのサンドバッグ状態。無理矢理相手の車に引きずり込まれ拉致られそうにもなった。
もうプライドもなにもかもズタボロ。
すぐに警察に事情を説明し被害届を出したが時間が経っても一向に状況も変わる事はなかった。
しばらく経ち噂を聞きつけた地元の先輩から兄に連絡が入る。
地元の先輩の知人だったらしく、被害届を取り下げるよう促される。
納得できなかった。
人づてに話が広がり日に日に事の問題が大きくなっていった。
関係のない人達が入ってきて話がややこしくなり始めた。
気づけば第三者同士で揉め始めてしまい一人の問題じゃ無くなっていた。
終いには友人まで巻き込んでしまった。
周囲を巻き込んでしまった罪悪感。
毎日のように鳴り続ける電話。
相手の情報を把握できたのに警察に提供するも動かず状態。
もう何もかも嫌になっていた。
僕が我慢して相手の条件を呑めばこの状況が解決すると思うようになってしまい、泣く泣く条件を呑み被害届を取り下げに行く事になった。
一人では何もできなかった。自分が本当に情けないと思った。
もっと自分に力さえあればこんな嫌な思いをせずに済んだのにと自分の無力さを怨んだ。
株との出会い

仕事の関係で長谷川さんという年配の方と知り合う。
僕が担当していた取引先の方なので問い合わせでよく通話をしていた。
2012年頃だったかな?民主党から自民党に政権が変って安倍首相になり巷でアベノミクスと言われ始めていた頃だったと思う。
いつも仕事の要件が済んだら決まって株の話ばかりされていた。
その当時は株に一切興味が無かったので、株とは無縁の生活を送っていた。
むしろ株は怖い物だと思っていたので、損するのは嫌だから勧められても自分はやらないと毎回断り続けていた。
しかしある時、長谷川さんにふと言われた
「サラリーマンなんて頑張って働いても一生でもえる金なんかたかが知れているんだよ?そんな人生なんてつまらなくないか?株は全体的に値段落ちてるから今が買い時なんだよ。貯金なんてしていても金利なんて昔みたいにつかないんだから株に変えておいた方が配当も貰えて得だしいいぞー。」
のちょっとした一言がきっかけで考えるようになる。
気持ちが変わりはじめ株に興味を持つようになった。
少しぐらい損してもまた働いて稼げばいいや!と思い紹介された大手証券会社で初めて口座開設をした。
人生を変えた株式投資

余剰資金を使ってさらに資産を増やしたいと思っていた。
始めた当初は長谷川さんに株のノウハウや銘柄選びを教えてもらったりして参考にしていた。
それを元に自分なりに分析したりして勉強をしていた。
確か初めて買った株は長谷川さんから勧められたANAだったような。
言われた通り買ってから数ヶ月放置していた。
薄利だが初めて利益が出た。
金に執着しだして月日が経つにつれ調子に乗り出すようになる。
企業の事をろくに調べもせずもっと早く稼ぎたいという衝動から値動きの激しい銘柄に目移りするようになり小型株ばかりに手を出しだした。
思惑とは逆にばかり動く株価に右往左往。勝っては大幅に負けるを繰り返し資産はどんどん目減りしていった。
損失が膨らむにつれ感情的になってしまい引くに引けなくなっていた。
冷静な判断ができなくなっていき一発逆転思考になり信用取引でレバレッジをかけまくる。
ドツボにハマりだし損失額がすごい事になる。
やばい!少しでも損失取り返さないと!!
とやけになり使わないと決めていた金にまで手をつけてしまう。
現実を受け入れられずに幻想を抱き理想ばかりを追い求め続けていた。
その結果、気づいたらコツコツ貯めていた預金もここ数年で底をつくまでになってしまった。
資産を失った事で自分の中で何かが崩れ落ち漠然とした不安感に襲われるようになった。
全て自己責任だけど、精神的にもかなりきてた。金も食欲も無くなり飯も喉を通らなくて体重もかなり落ちた。
資産を失い今までは当たり前だと思っていた事が当たり前じゃ無くなった。
何をするにもうまくいかず失敗ばかりで自分のやる事に自信が持てなくなっていた。
途方に暮れていた

何かいい情報を求め、ネットサーフィンしていた時にセミナーを通して知った相場師郎の株塾を観ていたら関連の動画で人生投資家チャンネルというページを見つけEDENさんという人物の存在を知った。
最初は興味本位で半信半疑だったが、発信している動画を観ている内に魅了され引き込まれた。
自分にはすごい衝撃的な話ばかりだった。
数々の動画を観て話を聞いているとなんだか物語に出てくるような人生を歩んできた人だな思った。
世界中を飛び回りながら沢山の事を成し遂げてきた実績のある経験豊富な方なんだろうなと感じた。
人生投資家Programや限定動画を知り、観るようになってから少しずつだが価値観や考え方が変わってきたのは事実。
投資に関することはもちろんのこと、それだけでは無く人生の本質的な事についても語られています。
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現在は結婚をして子どもにも恵まれ、妻と子の3人暮らし。
お互いにアイディアを出し合いながら部屋をDIYして住んでいる。
親父の背中を見て育った影響もあるのか興味本位で家庭菜園も始めてみた。
この先の人生、豊かな生活を送り、笑顔の絶えない家庭を築いていく事を目標として毎日を過ごしている。
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