幼少期、唯一の善は『優秀を発揮すること』だった

 

1970年の1月、岡山県の片田舎で、1階建ての木造アパートに長男として生まれた僕は、質素倹約を旨とする両親の、特に母親から溺愛された。

「昌平はできる。優秀だ。将来は必ずすごい人間になる」

何度も何度も、幾度の場面で刷り込まれたこの概念は、僕の人生の心の穴になり、今でも面倒くさくも僕について回っている。

本当に、親ばか以外の何者でもない。

今考えると恥ずかしいったらありゃしない。

小学校で僕がソフトボールのピッチャーをすれば、満面の笑顔になり、

中学の吹奏楽部でクラリネットでメロディラインを担当すれば、「昌平は将来素晴らしい音楽会になる」と完全に思い込んでいたようだ笑

3年になって副部長になり、指揮をしたりマーチングバンドを率いて岡山の街を回ったときなど、飛び上がるほど喜んでいた。

思うに、両親ともに医者(勤め)で、本当に世間知らずだったんだと思う。

結果、親に、先生に、友達に、褒められたり可愛がられたりすることこそが、僕の中の『善』だった。

と同時に、優秀が発揮できないと分かるやいなや、僕の体はそれを拒否し、すぐに腹痛を起こしていた。

学校のテスト勉強が不十分だった時や、自分たちのチームより強いチームと戦う前夜など、決して仮病ではなく、本当に体がそれを全力で拒んだ。

『優秀でないという現実』を見ないがために。

 

高校に入学して初めて味わう試練

 

入学した高校は進学校で、それこそ毎年東大に20人とか入るような学校だった。

また、母親の母校でもあった。

両親が医者だったこともあり、僕は何も考えることなく、将来自分も医者になるんだと思い込んでいた。

ただし、ここで1つ大問題が発生する。

周りが僕より圧倒的に優秀だったこと。

それも恐ろしくできるやつらばかりだった。

それは、学力面においては当然として、スポーツでもそうだった。

いわゆる、文武両道のやつらがゴロゴロいる中、僕はだんだんと居場所をなくしていった。

いくら本気で頑張っても、学年で半分にも届かず、小学校の時のソフトボールでは野球部には決して太刀打ちできないし、唯一の希望の吹奏楽部は、県下で弱小ということが分かっていたので、敢えて入らなかった。

 

要するに逃げた…

 

勉強もするフリ、体育の時間も適度のやり過ごし、なんとなくみんなの輪の中にいるものの、僕は、完全に自分を見失い、自分より優秀な存在には目をつぶるようになった。

諦める。最初から努力しない、うそぶく。

そういう戦わない選択肢を確実に獲得していった。

そういう、かっこ悪い生き方を自分の中に作っていった。

だから、僕は高校生時代の記憶がほとんどない。

卒業25年後の同窓会でも、僕は「おお!昌平!元気か?」と言ってくる同級生たちの半数以上は覚えていなかった。

むしろ、こいつらなんで俺のことおぼえてるんだ?って思ったくらい。

 

大学進学→再び『優秀を発揮』する

 

当然、医学部なんて合格するなんて奇跡は怒らず、一浪して地方大学の理学部に行くことになる。

家の方針で、私立という選択肢はなかったので、どうにかこうにか国立大学に滑り込む。

そして、恐る恐る周りを見渡す。

新歓コンパとかいって踊り狂っている上級生。

遊ぶお金を作るためにバイトしかしない同級生。

「こいつら、アホか!」って本気で思った。

同時に、「ああ、ここなら俺の優秀が発揮できる!!」とも。

あいつらと一緒の授業になんて出ない。

それでも、成績は優秀を取る。

参考書を買って、試験に出るようなところだけを勉強して結果を出す。

ああ、俺ってやっぱり優秀やん!! 

みろみろ、周りの羨望の眼差しをww

やっぱり、優秀って気持ちいい。

優秀最高!!! おれ最高!!

地方の大学の小さな人間関係の中で、僕はまた居場所を発見する。

そんな中、当時住んでたアパートの玄関に、父から郵便が届く。

 

両親の離婚

 

母親が不倫をしている写真がA4大判で2枚入っていた。

白黒だったくらいのことしか、今となっては思い出せないが、その時はなぜか、父を憎んだい。

浮気したのは母だったのに、こんな写真を自分にたち子供に送ってくる父を憎んだ。

そして、同時に僕の心の支えだった「優秀であること」は揺らいでいくことに。

もう、優秀である理由なんてないのではないか?

無理して、かっこついけて生きる意味なんてないぞ!!

そもそも、入学当初から大学に行く意味に疑問を感じていたので、すぐに退学の手続きをしようと思い、チューターのもとに出向く。

といっても、大学側としても、はいそうですかって感じで学生を退学させるわけにもいかず、話がまとまらない。

そんな不毛なやり取りをしている中に、一人の男性が僕のもとに向かってきた。

「君は、吉岡先生のお子さんかね?」

その時は目が飛び出るほどびっくりした。

その人の名前はもうとっくに忘れてしまったが、聞くと僕の父の高校時代の同級生だというのだ。

彼は僕の話を真摯に聞いてくれた。

そして後日、おそらくは僕の父と連絡をとりあったのだろう、

僕はめでたく、大学を休学扱いになった。

あの時、憎くて憎くて仕方がなかった父のおかげで、僕は自由になった。

父はその方とどういう話をして、なぜ僕の休学を認めてくれたんだろう。

本当に本当に複雑な気持ちのまま、僕は大学を後にした。

 

居酒屋の厨房の中で初めて知る、大人な世界

 

休学した以上、生活するのにお金が要る。

それまで親からもらっていた仕送りは、半分になった。(この時点で、あまあまな親であり、根性なしの僕なのだがww)

今のアパート代と食費代をあわせて、最低10万円は稼がないといけなかった。

だから、割のいいバイトをすることにした。

最初は家庭教師をしていたが、あんまり面白くもなく、

それに時給はよかったけど、労働時間が少ないのであまりお金にならない。

だから、水商売を考えた。

ちょうど、その時に大学の友人たちがバイトしていた居酒屋があったので、そこを紹介してもらった。

とにかく、一生懸命働いた。

勤勉に、まじめに、ずるせずに・・・・

時々、父や母のことが頭によぎりながらも、夜遅くまで働いた。

最初はホール担当や洗い場担当だったけど、そのうち、厨房の人に気に入られて、調理の補佐をするようになる。

串モノの鶏肉やら牛タンやらを、串にさしていく作業から始まって、最後は揚げ台(揚げ物を作る場所)任させるようになった。

 

ふと気づけば、料理を作って“あげている”側にいる自分

 

もちろん、お客さんのことを下にみるのはよくないと分かっていながらも、その時は、カウンターにすわる女性が全員、自分のことを好きに違いないって思い込んでいた。

高校までろくに彼女もいなかった僕は、大学生になるや否や豹変した。

いわゆる、小僧の大学デビューってやつだ笑

20代前後の数年間は本当に、女の人全員、セックスの対象としか見てなかった。

本当に今考えると失礼極まりない話だ。

そしてその最たるのが、この居酒屋の厨房時代。

目当ての女性にさっと料理を出して、ちょっと微笑むだけど、仕事の後待ち合わせてそのまま・・・・

俺って今、世界一モテてる!!

確実にそう信じ切って調子に乗って毎日を過ごしていた。

 

大学に通っていただけでは決して味わえない経験、

 

板前さんに怒られながらも可愛がられ、人の温かみに触れた嬉しさ。

今思い出しても涙が出てくる。

また逢えるのであれば、どこにでも逢いに行きたい。

本当にそう思う。

そんな小僧(サル)の生活も、1年という約束だった休学期間を迎え、終焉を迎える。

僕は、1年休学したのだから、1つ下の後輩たちと一緒に大学生活に戻ることになる。

本来なら、そういう年下のやつらと一緒にいることすら、かっこ悪いと思っていたけれど、なんと、そのまま大学院まで進んで、修士課程を経て、博士課程にまで進むことになる。

いろいろあって、ドクターの称号を取るまでは続かなかったけど、それでも、1年の休学を経て、あの居酒屋で経験したことが、これまでの僕を全く違う人間にしたことは間違いない。

一緒に学び、一緒に笑い、一緒にバカをして、

アパートの中で、七輪を使って釣ってきた魚を食ったりもした。(どうして大家さんは怒らなかったんだろう笑)

大学院を辞めた一つの理由として、物ばかりを扱う人生ってどうなんだろう?という疑問が僕自身の中に生まれたことがある。

当時、水素吸蔵合金なる材料を研究しており、これが完成すると未来のエネルギー問題が全部解決するぞ!と息巻いてやってはいたけれど、何が自分の中に引っかかるものがあった。

すでに、優秀を発揮することにそれほど固執することはなくなっていたし、研究者として生きる選択肢もあるにはあった。

でも、なぜか、モノを研究することは自分の一生の仕事ではないと感じた。

なので、僕はそこから思い切って人生の舵を切ることにした。

 

鍼灸師の道へ

 

すでに医学部はとうの昔に断念している以上、なにか人と直接関われる仕事はないものかと探しに探して行き着いたのがコレだった。

父親が精神科だったこともあり、実家にはやれヨガだ、やれ心療内科だ、やれ、断酒だという、医学では対処でいない本が転がっていたことも、その契機になったんだろう。

その時付き合っていた彼女がたまたま東京にいたことを理由に、安易に僕は渋谷の専門学校を選択した。

と言っても、1年に100万円は必要な学校で、それを用意するのに最終的に母親にお願いすることになる。

母は母で、自分のせいで離婚したという負い目のあったのだろう。

なんと、専門学校3年分の全額を捻出してくれた。

その頃は、父も母も、お互い再婚していて、それぞれの家庭もあったろうに、こんな愚息にどこまでも甘い。

そして、本当にありがたかった。

とは言っても、最低限の生活費はかかり、おんぼろアパートと渋谷の往復の途中の駅にある受験塾で、夕方から出向いて夜まで働いて月20万円をいただくことになった。

午前から昼すぎまでは、渋谷の専門学校へ通い、夕方から夜の夜中、それこそ終電直前まで塾で働く。

この時僕は28歳。

30歳を前にして、徐々に体が悲鳴をあげていたことには全く気づくことはなかった。

 

十二指腸潰瘍穿孔→パニック障害→不整脈カテーテルアブレーション…!!

 

この頃タバコを1日2箱吸っていたので、もちろんそれも原因だったけれど、一つは塾で、もう一つは専門学校で、とある人間関係のもつれで、僕は文字通り人に裏切られる経験をする。

専門学校で研究をしてた時、学会発表は僕がやったので論文には僕の名前が必ず載ると思ってたのが、教授の名前と僕と一緒に研究していた上級生の名前で論文が世に出た。

いわゆる大人の事情とかほとんど味わったことがなくて、そのもう一人の学生が今後指導する側になるために学校に残ることが原因だったんだと思うけど、なんでそんなダサいことするんや?って思いでいっぱいだった。

学習塾でも同じ時期に同じような経験をする。

中学受験の部から一時的に高校受験の部に担当が変わった時のこと。

当時の上司の指示で担当を代わったにも関わらず、高校受験の授業の中で問題が起こった時に、彼は1mmたりともバッアップもしてくれなかった。

正直、悲しいを通り越して、腹が煮えくり返る思いだった。

「いい大人が約束の1つも守れないんか!」

「どうしてそんな不義理なことを平気でやれるんや!!」

 

そんなある日の早朝。

 

僕は初めて”胃の違和感”を覚えた。

それまで、下痢はよくしていたので腸のあたりが痛いことは経験済みだったけど、その歳になるまで胃がどこのあるのかすら知らなかった。

そして次の瞬間、痛みは突然襲ってきた。

鍼をしてお灸をして、トイレに行った後もまた鍼をしてお灸をして・・・・

普段なら、痛みが消えていくのが、その日に限ってはむしろどんどんと強くなって、最後には

「あ、あかん…このままでは死ぬ」

そう思って最後の最後の力を振り絞って、119番に電話。

あのときほど、携帯電話のありがたさを感じたことはない。

緊急隊員が僕のアパートに上がりこんできて、どこぞの病院まで搬送され、胃カメラを前処置なしにいきなり押し込まれたまでは覚えている。

その後、およそ1週間ほど鼻から口からチューブを突っ込まれて、モルヒネ生活を送ることになる。

退院後、専門学校に通う朝の満員電車で、心臓がいつもの5倍くらいの鼓動でバクつく。

体に力が入らない。膝から崩れ落ちそうになる。

かっこ悪いとかそういうのも通り越して、辛い!苦しい!

だれか助けて!!

「パニック障害」だった。

いつの間にか、僕は心身ともに壊れていた。

直後、今度は心臓の鼓動が2回に1回止まるようになる。

ドックン、ピタ! ドックン、ピタ!・・・

完全に過信だった。

俺は何があっても健康体だと思い込んでいた。

不摂生な食事、毎晩のビール、1日40本のタバコ・・・・

そして、人に裏切られた(と自分で解釈した)事件が2つ。

 

その時の僕は、文字通り「廃人」だった。

 

専門学校には、朝の満員電車に乗っては途中下車して帰る日々。

そのまま、憂さ晴らしにスロットに行ってはなけなしのお金を使ってしまい、

次の日の飯代を稼ぐためだけに、夕方から塾に行く。

夜になると、心臓が暴走し、朝日が差し込んでくるとやっと少しだけ眠る。

塾の仕事はなんとかこなしていたけれど、あれでよく専門学校を卒業させてくれたなと思う。

その時の担任の先生には、今でも頭が上がらない。

 

卒業と同時に、塾を辞めて塾を始めた。

 

同級生のように、どこかに働きに行って給料をもらうという考えは、もとよりなかった僕は、アパートを引っ越して、1室を治療室にして開業をした。

今考えれば、どうやって集客するん?って思うよう後先考えずの行動だったけれど笑、同時に塾を立ち上げたおかげでそこからの集客もできた。

学習塾の塾長はカリスマのある人にやってもらって、僕はそれを補佐する役割。

中学の吹奏楽部で副部長をした時も思ったけれど、どうも僕は二番手がというか、誰かのちからを補佐して、それを発揮する手伝いをするのが性に合っているらしい。

ただ、二足のわらじを履き続ける違和感をずっと感じていた。

鍼灸の道を極めんとしれば、師匠のいる千葉で往復5時間を毎日通わなければならない。

そしてそれをすると、塾の仕事ができなくなる。

一方で、塾に仕事に専念するまでに決断は最後までできなかった。

そもそも、塾長のカリスマでもっている塾に全力で向かって意味があるのか?

俺は、鍼灸師として成功するために、たまたま塾をやっているだけだぞ。

そんなくだらないプライドは、ある時一瞬にして破壊された。

 

自分が作った学習塾をクビになる!?

 

正確に言えば、カリスマ塾長と一緒に立ち上げた塾。

これを、契機が悪くなることを見越して、彼の息子や奥さんを入れた家族経営でやると塾長が言い出した。

確かに、名義は彼の塾で、僕はそれに寄り添ってあまり汁を吸っていただけなのかもしれない。

でも、だからといって僕はこれから、どうすればいい?

どうやって生きていく?

恐怖で毎晩寝られない・・・

やっと不整脈が収まったのに、今度はお金の不安で文字通りぶるぶると恐怖に震えて生活をしていた。

今ここで、鍼灸師で生計を立てるにしても、スキルもまだまだ。

それに、今の患者さんは塾があったからこそ集まってきてくれた人たちで、

塾を辞めたら途切れてしまう。

どうすれば、生きていける?

岡山の実家、オヤジのもとに帰る?

それとも、母親が住んでいる名古屋でお世話になるか?

いやいや、そんなダサいことなんて絶対にできない!

大学院を辞めて、人にために生きると鍼灸師になると啖呵を切ったのにだ、

それだと出戻りニートになってしまう・・・

ううううううう!!!!

 

インターネットビジネスとの出会い

 

鍼灸師もそうだし、個人塾もそうだけれど、いわゆるスモールビジネスを個人がやる場合、集客その他、インターネットで行うのが圧倒的に期待値が高いことは知っていた。

だから、暇を見つけては、情報を取ったり、実際にやっている人に会いに行っていた。

詐欺情報に騙されたことも何度もあったけど、それでもそこに魅力を感じつづけていた。

そんなある日、川崎で食事をしている時、どこかでみたことがある男性と、そのレストランで出会う。

どうしても気になったので勇気を出して声をかける。

後から聞くと彼も、僕のことが気になっていたらしい。

一言、二言話すとすぐに彼が誰かのかが分かった。

以前、僕にskypeでインターネットビジネスについて教えてくれていた人だった。

でも、彼は普段さいたまに住んでいた、出ても東京まで。

その時僕は、さいたまには行ったこともない。

その二人が、偶然にも出会ったのだ。

僕はその時、文無し職なしのただの男。

彼はその時、新しいビジネスを立ち上げる準備をしていた。

そして、スタッフも何人か募集していることも、僕に語ってくれた。

以前、たまたま僕が書いた文面を彼に送っていたことが功を奏した。

「吉岡さん、僕と一緒に働きませんか?」

僕は即答だった。

「はい!頑張らせれてください!!」

 

僕は死ぬ気で3年間働き続けた。

 

僕は、彼の事務所から徒歩3分の家賃3万円の団地に住み込み、文字通り朝から晩まで働いた。

途中、鍼灸の師匠にところに出向くことはあったけど、ここで結果を出さなくていつだすんだと、地面に這いつくばってでも何かを結果を出してやるという思いで頑張った。

結果、会社は5年目にして1億7000万円の売上げを作った。

この額は今もほぼほぼそのまま引き継いでいる。

この実績を一気に作った詳細はいつか書こうと思う。

ただ、少なくともPVやリスト獲得にこだわる方法ではないことだけは言っておく。

インターネットを使って稼ぐ方法は、想像するところは全く別にあった。

車も社用車として与えれれ、住むところも与えられ、いわゆる固定費はほぼほぼゼロになった。

ボーナスは年度末一括1000万円を受け取った。

ちょうどその頃、名古屋母親が再婚相手を亡くして一人になったことにきっかけに、母に会いにいく機会も増えるだとうと、マネージャーという地位ももらった。(実質仕事なし)つまり、ほぼほぼ不労所得の生活に入った。

 

夢にまで見た不労所得の生活。でも・・・・

 

なってみて感じた。

やってみて思った。

不労所得な生活なんて、なんにも面白いことがない。

今まで味わってきた達成感がない、ギリギリのところで結果を出すスリルもない。

同時に、僕には趣味がないということを改めて知った。

海外に行きたいとも思わないし、贅沢で美味しいものを食べたいとも思わない。

服はユニクロで十分だし、自宅で大画面プロジェクターで映画を観る以外は、なにもお金はかからない。

その上、いくら車に乗ってガソリンを消費しても会社の経費で100%返ってくるし、マンションの家賃も会社持ち。

だから、毎月10万円も使わないから、残りはそのまま貯まっていくだけ。

なにが面白いん?この生活…

コレは本当に、暇すぎる。。

かと言って、自分一人だけの力で何かを成す力は僕にはない。

中学の吹奏楽の時もそうだったし、

学習塾を立ち上げる時もそうだったし、

今のインターネットビジネスもそう。

与えられた範囲で与えられた仕事の中で、成果を出す。

それ以外やったことがない。

 

では、どうすればこの暇で感動しない毎日から脱却できるのか?

 

自分で事業をやったことがないし、やり方も全く分からない。
でも、この毎日の貴族のようなただただ生かされている毎日はもううんざり!

もんもんとして何も手に付かない日々
自分で全部やろうとして手が止まる・・・・

 

弱い自分を受け入れることにした

 

僕は、一人では何もできない自分を受け入れることにした。

一人で何かを始めるのは、実際何があるかわからないので怖い。

でも、本気の誰かと一緒になって、事業を作り上げていくのはどうだろう?

一人だけでは、萎縮してしまって本当に実力が発揮できない。

でも、仲間がいるなら話はべつだ。

一人で背負い込む苦労も分かち合えるし、リラックスして物事に取り組める。

僕自身、一人では何もできない、続かない。ビビって前に進まない。

でも、一方で、何かを発揮したい、自分の力でビジネスを作ってみたい!そういう人と一緒に事業を進めるのはアリだ!

 

事業投資家というアイデンティティー

 

僕は今、「事業投資家」という肩書きで活動している。

その人の中にあるリソースを見出し、需要を見つけ、価値あるものをビジネスとして事業化する。

これが面白い。

僕自身そうだったが、その人の価値はその人が決めるものではないと思っている。

というよりも、本人はほとんど気づいていない何かを誰でも持っている。

これは確実にそう。

ダイヤの原石は、磨けば必ず光る。

その人の実力の全部を発揮する仕組みは必ずある。

そういう人に対して、僕は援助を惜しまない、投資を惜しまない。

彼らの中に、必ず価値があると知っているから。

一人で生きる力がある人は、本当に素晴らしいと思う。

自分の生きる道を一人で見つけ、それに向かって一人で進んでいく。

それは僕には出来なかったことだし、今も誰かの力を借りないと決して出来ないことだから。

でも、そうでない人もたくさんいる。

自分の進むべき道に悩んだり、

自分の価値を見いだせず、自分蔑んだり、

思うように物事が回らなかったり・・・

そういう人に、こんな僕でも少しでも助けになれるのであれば、

それが、本当に心から嬉しい。

 

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