僕の人生を振り返ってみた。

 

twitterアカウント: @h_yukiti


 

愛媛の小さな田舎で生まれ育った僕は、気が付いたら父親の大工を手伝っていた。

子供の頃から何かを作る作業に熱中して、他人よりも簡単に同じものを作る事が喜びでした。

興味がわけば、初めはビデオデッキや扇風機やラジオ、ソファーや自転車を中には何が入ってるのか?との疑問から、一度分解してまた組み立てることをしていました。

ソファーはカッターで切ったので、中身だけ見て元には戻せず、両親に怒られましたけどね。

今でも、大工以外の家で困ってる事で「見てみましょうか?」と水道の蛇口や、家具など治してみたり、保育園のイベントに使う備品なども調べて、考えて保育園の先生と相談しながら、作成したりもしています。

もちろん、家の方も作っていますよ。

今でも他人がこのような物が欲しいと相談受けると、形のある物から選び出し試しに作ってみる事に魅了されいます。

 

何故「作る」という事に魅了されているのか?

 

子供の頃から人と話をするのが下手で、自分の考えをそのまま伝える事が出来ていません。

特に電話が苦手で、顔を見ずに話しをするのがダメでした。

子供の頃か電話が鳴ると誰からも判らないし、何を言われるのかもわからない事で、一人で居るときに電話が鳴ると逃げていました。

言葉で伝えるのか嫌なら、僕の気持ちを「作ったもの」や「作業」で伝えるって方法を自然と選んでいたのでしょう。

僕の働き、完成した家や、物で喜んで頂ける人に僕という人間をわかっていただけた。と喜んでいる僕がいます。

形にしたもので、僕自身を表現しているのでしょう。

 

怖いものを知らなかった幼少期

 

僕が外を歩いていても「しんちゃん」と、町ではよく声を掛けられ、小さな町だけど自分の庭のように遊んでいました。

気に入らない子がいると、通りすがりに頭をたたいてよく泣かしていたそうです。

5歳になった頃、3歳の弟が小児麻痺で入院し、母親は弟の付添、父親は大工の仕事が忙しいし、祖父母は病弱だったため、近所の親戚に半年近く預けられ、その家庭の兄妹の中で生活をしました。

親戚の家庭に入った僕は、親戚のお兄ちゃんの機嫌の悪いときに遊んでもらおうとしても怒られたり、おじさんがの機嫌の悪い時があるのを知り、顔色を伺っていたそうです。

歯医者から帰ってきたおじさんのしかめっ面をみて、ソーっと遠ざかってる僕がいたそうです。

弟が亡くなってからでもその親戚が近所だったため、自分の家のようにその兄妹に遊んでもらおうと行った時、家の裏に野犬がいるのを見つけ、お姉ちゃんを振りほどき野犬に向かっていったそうです。

僕の体格と変わらない位の野犬に向かった僕は、腕を噛まれ、頭を噛まれて振り回されてたそうです。

この時「怖い」という気持ちを知ったように思います。

それから、犬、電話、お化けは僕の中で恐怖です。

 

恥ずかしいが人とは違うと思った学生期

 

僕は人との対話は苦手だったのですが、思った事をすぐに言葉に出すようなので、学生の頃はクラスの中でも目立っていました。

小学校の高学年にもなると、目立った僕がいつも代表して怒られていたように思います。

先生がこうやりなさい!と言われても、こうした方が楽やん!と言って怒られたり、クラスが盛り上がってくると調子に乗りすぎ怒られ、中学生にもなると目立たないようにしよう!という気持ちが常にありました。

でも、頭に思った事が反射的に言葉に出るため、周りの友達から「恥ずかしいから、やめろ」とか、僕が発言するとピタッと話題が止まる事に違和感を感じていました。

悪いことをして、先生に怒られようが「恥ずかしい」といった気持ちもなくしだいに「怒られたらすむだけやん」と悪い事でも興味だけで試していました。

先生から「目立ちすぎる」と注意されたり、勉強も「成績って、記憶したことでの採点」ってのに気付き、学校には友達と遊ぶために行ってました。

高校も、勉強したくないのに何故行こうとしてる友達がいるのか?と疑問に思っていましたが、友達と遊べなくなるのと、両親から高校だけは行けとの事で、中学の延長で進学しました。

 

物やお金に執着のない僕

 

ものごころが付いた頃から、大工仕事を手伝ってもらった人や、父親を訪ねてくる人達で、家には他人がいる事が多く、お土産や、おすそ分け、お小遣を頂いていました。

それが理由なのかは判りませんが、遊んでる時に、近所のおばちゃんや祖父母に「お菓子あげる」と言われても僕は「そこに置いといて」と喜んで受け取りには行かない子供でした。

小学生5年生頃に母が近所の新聞配達のおばちゃんが高齢のため距離の遠い20件が辛いから、やってみないか?との事で、新聞配達を手伝う事になります。

お陰で、僕のこづかいは新聞配達の報酬。高校生になると、代わりの新聞配達員ができ、しなくても良くなったのですが、父親の大工を手伝ったら、働いた分だけのこづかいを頂いていました。

物に対しても、キン肉マン消しゴムやビックリマンシールといった物を集めている友達を横目に、ビックリマンシールを欲しくて買った友達のウエハースをよく貰ってました。

物やお金に執着の無い僕は、お金があればすぐ使い切り、自分の物も大事にはせず、よく無くしたり、壊したりと、

他から見たら粗末にするような人間だったと思います。

 

世界の広さを知った大阪

 

無理やりでも、高校は卒業できました。

大工を手伝ってたのもあり仕事の楽しさを少しわかってたのでしょう、物作りにも興味はかわらず。

父親に建築士の免許を取るため専門学校に行くように勧められたのですが、どうしても働きたかった僕は、父親の専門学校と僕の働きたいの両方の意見を取り、昼は建築の仕事でバイト、夜間は専門学校に通う事に決断しました。

夜間の建設課の生徒たちは、建設の仕事に従事した生徒が多く、作業や仕事内容をリアルに聞けるし、年齢もバラバラで、僕の選択は間違ってはいなかった。

ただ、愛媛の田舎で育った僕は驚きの連続でした。

今までの田舎での友達は、飛びぬけて優秀な人が少なく、なんでも出来る人が重宝がられます。

都会の人は、興味がある趣味や特技に対してすさまじい知識や才能、技術がある人がいるのに関心させられた部分もあり、興味のない事にはまったくといって無知な部分もあるのにも驚きました。

自分の知識や才能が小さく感じました。

専門学校もなんとか卒業でき、父親の大工を手伝うため愛媛に帰省したのですが、田舎の友達は、車、パチンコ、女といった僕の興味のわかない遊びをしていたため、パチンコ、ナンパと試してはみたけど続かない。

たまたま出会った同級生にサーフィンの楽しさを教えてもらい、一度連れて行ってもらう約束をしました。

 

趣味から僕の人生が開けた

 

愛媛から高知へと車を走らせれば3時間

同級生が出来るのなら、僕にもすぐに波に乗れる!と思いあがっていましたねぇ~(笑)

サーフボードとウエットスーツを同級生から借り、いざ波の立つ海へ!

初心者は沖に出れないんですよ!!波が立ち始めるポイントに行くには、立った波を超えていかなければならない。

スキー場みたいにリフトもないので、自分の力でしか行く手段がない!!

そんなサーフィンにはまり毎週日曜には高知に向かっていました。

海で出会う同じ趣味の人々の中、同じ愛媛でサーフショップを経営してる人に出会いました。

初め、サーフィンのポイントや道具の話だけだったのが、一緒にBBQしたり、カレー作って食べてるうち、忘年会やコンパといった夜の街に移動したりと、すぐに打ち解けていき、投資でハワイの土地を買っていたけど、バブルが弾けて数千万の借金だけ残っていることや、国際電話の事業に投資して1千万ほど損したとか、僕の経験したこともない話がきけました。

そのオーナーは、大学を卒業後サーフィンに魅了されフロリダへと移り住み、フロリダで仲の良いサーフボードを作ってる人の板を靖国仕入れ、日本でサーフボードを販売していいました。

そのオーナーさんがBBQやらサーフィンの大会などイベントをしたいときには僕に相談があり、僕は参加者に声をかけていました。

サーフィン以外にも、遊漁船をチャーターして、青物やキハダマグロを狙った釣りの同乗者集めなどもしました。

そのせいもあってか、

電話や、人との対話にも苦手意識が無くなったように思います。

 

大工をやり続けないといけないのか?

 

大工の仕事にはケガが付き物なのですが、大きなケガはなく続けていたある日、屋根の上で仕事していたはずなのだが「救急車呼んだから、立てるのか?」と父親の声に????

一階の屋根から落ちて、道でハナジ出して気を失っていたそうです。

頭から落ちたらしく、重度の脳挫傷、頭蓋骨が割れて、くも膜にも出血があったそうです。

体も動くし、人の話しもボーっとしながらでも、理解出来ていると自分では思っていました。

幸いにも、くも膜下の出血は止まったので、手術しなくてもよかったのですが、数日して看護師さんが「あなた、どうなるかと思ってたけど、運が良かったねぇ」と教えてもらい、どれだけヤバかったん!って驚いてます。

2週間ほど入院していて違和感は無かったのですが、退院後テレビを見ると目が回ったようで気持ち悪いし、二桁の暗算が出来ない事に気が付きました。

眼科で、眼球の動きが少し鈍いがそのうち治るかも知れないけど、脳のCTかMRIの写真見ながら「これだけ脳が損傷して、障害はでなかったの?」と不思議がっていますが、僕にはまだ動くんだから、大丈夫じゃない?と、深くは考えませんでした。

ケガから一ヶ月程で仕事に戻ったのですが、体は前と変わらず動くし道具を使う感覚も大丈夫。

ただ、思い浮かんだ言葉が発しにくいのと、暗算が出来ない。

ゆっくりとこなせば出来るのですが、今まで通りには仕事の段取りが思いつかないと今まで通りには脳が働いてくれませんでした。

僕の家族は、大工するのは無理かも知れないって覚悟してたようですけどね。

ただ、僕と父親の判断でお客さんに迷惑がかかるなら止めたら良いし、出来るのなら現在注文を受けている分だけでもやってみよう。

それ位の気持ちでリハビリしながらでも、続けてこれました。

言葉と段取りは、すぐ戻りましたが、暗算は日によってバラツキがあります。

体を動かす感覚や、道具を使う感覚は体には覚えてたようですので、続けろ!って事かなと続けています。

 

職業、父親を通して学んだ事

 

僕が結婚してから、毎日のように嫁が父親の晩酌に話し相手として通っていましたが、お客さんと父親とのトラブルからきっかけで父親と嫁が喧嘩となりました。

それを境に、父親と嫁のギクシャクしだし、僕はどうして良いのかわからず、仕事が忙しいと逃げていました。

しばらくすると、父親に転落事故にあい、半年入院して、治ったと思えば、父親の友達が破産し保証人のハンコを押した父親に1千万の借金がふりかかるし、税務署からの申告漏れ。解決が出来たと思えば食道癌の宣告と災難続きでした。

その間も仲直りする気配も無く、時間だけが過ぎて父親との最後の日がきました。

食道癌から胃癌そして、肝臓癌と併発していたので、やせ細った父親を見るのが痛々しく思いながらも、別れの間際に数分だけ意識が戻り、僕ら夫婦が顔を覗き込むと笑顔になってくれて、僕の中で父親に対しての悩みが一瞬で解けた瞬間でした。

まだ入院中に僕一人が訪れた際「人を思って一生懸命しても、何時どうなるのか分からんから、もう少し楽に生きなさい」と言われた事が今でも頭に引っ掛かっています。

僕の経験した考えでは、大工の技術は結局、注文して頂いた人に、せっかく作るのだからこうしてあげたい。

と思うことで、勝手に技術が上がったり、知識も増えていったように思います。

大工と父親を通して、注文された人を思う気持ちが僕の原動力なのかもしれません。

その原動力を作るために、道具のメンテナンスの大事さや、要らないと思うことの引き算など行動を起こすことの軸になることを学んでる最中です。

最後の父親の言葉「楽に生きろ!」も、気持ちに余裕がなければ人を思う気持ちまで無くすように感じます。

 

ネットから得ようとしていた事

 

30歳も超え、僕には一般的な知識がないのではないかとの不安で啓発本など読み始め、著者の興味が出た人の事をネットで調べるようになりました。

株を始めた僕は掲示板を見つけ、僕の知らない事を発している人に話しかけたら、教えて頂けるのではないか?と思うようになり、Yahoo!掲示板の近づきたい人にコメントしたりして、僕の欲しかった情報を少し分けて頂いていました。

それでは物足りず、しっかり教えてくれる人はいないかと探していたところ「サイゴン道場」の人が教えてくれますよ!との情報で僕は探してすぐに入門しましたが、中身は主が上がりそうと思った銘柄を呟くだけで、投資方法などは一切ない道場でした。

一緒に入門された大阪のおばちゃんと、主の不満を話していたとき「相場師郎さん」に変えたとの連絡でユーチューブを検索。

適当に「相場師郎」で検索した僕は、「人生投資家チャンネル」での相場師郎さんを含んだタイトルの動画を数本拝見して、相場さんの道場に入る事と、相場チャートを入手する方法を検索してみると、動画の内容と相場塾との違いと相場師郎さんの声も違うのに不思議に思い確認するほどでした。

僕は「人生投資家チャンネル」の内容に魅かれたのと、ちょうどLINEで会員集めていたので迷わずエデンさんにLINEを送りました。

返事かかえって来ない事を知りながらも、なぜかLINEでメッセージを送っていました。

人生投資家ファンクラブの募集にも迷いなく入会しました。

 

目指す目的は、まだあてもなく!!

 

現在、投資の事はぼちぼちとして「人生投資家program」で自分の軸を作るように心がけています。

まだまだエデンさんが投資家programで言われてることの少しも理解できてはいませんが、自分のペースで軸を作り、自分の背丈にあった生き方ができれば良いかと考えています。

せめて僕の身近な世界で、奪い合わず、お互いの特技や好きな事を調和しあ得るような人々が寄り集まってくれたら、僕のうれしい世界になります。

先ずは、僕がそうなれるように目指して、試して、楽しんでいます。

 

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