私って引っ越しの多い人!?

 

はじめまして、こんにちは。yukikoと申します。

海外生活を合計17年ほど送っていたので日本に愛着があり、世界一短い詩の俳句や川柳に興味があります。詩歌は初心者ですが、気が向いたときに詠んでいます。

大阪で生まれ、ブラジル、東京、香港、東京と移り住み、また大阪に戻ってきました。

たった1年しか住まなかった街もあり、生まれた時から今までに14回ほどお引っ越ししています。適応力は鍛えられたかな? 夫と2人の子供がいます。

 

twitterアカウント:@karenyukiko


 

自分のブログ

 

初めての海外生活はブラジルのリオデジャネイロ

 

リオデジャネイロは5歳の時に会社員だった父の転勤で行きました。4年間の滞在中、アマゾンのイグアスの滝を見に旅行したり、カーニバルやヒッピー達やスラム街を見た記憶が残っています。街で銃声を聞いたこともありました。

日本人小学校に通い、居住区域に日本人が多かったので遊び相手も日本人の子供達でした。そして自然の中でのびのびと活発に遊んでいました。

小学4年時に帰国して東京に住みましたが、なかなか転校先になじめませんでした。日焼けで真っ黒で見た目がちょっと異様だったのかもしれません。見た目そのままのあだ名がついて、クラスの一部の女子から陰でコソコソ言われたり、きつい言葉で言われたり、いじわるをされました。

ですがその学校も数か月ですぐ転校となりました。親が住んでいた社宅を出たかったようです。そして次に移り住んだ街で25歳まで住むことになります。

 

よく物を壊してしまう子供だった

 

子供の頃は一緒に遊んでいる子のおもちゃや学校備品や友達のメガネを壊してしまったり、ショップの売り物の陶器を落として壊してしまったり、なぜか不注意で物をよく壊していました。弁償をしなくて済んだ状況ではありましたが、いつも申し訳なく思っていました。

自分自身も怪我が多く、何度も両ひざを怪我していたのでいまだに傷跡があります。家の中で壁の角にぶつけて足指を骨折したこともありました。

 

気性の激しい実母との関係

 

私の母は愛情深い人ですが気性がとても激しく、子供はたたいてしつけをするという考えの人でした。怒るとすぐに顔や頭に平手が飛んで来たので、子供の頃の私は常に母の顔色を見ていました。

私が小学2年時にドリルにきちんと取り組んでいないことに母は腹を立てて、いつものように私をたたいたのですが、その拍子に自分で持っていた鉛筆が右ももに刺さり、今でも芯のあとがあります。

母は怒り出すと、私が中学生になっていようと私の頭を外出先でもたたいていました。

父は仕事や接待で夜中まで忙しくほとんど家にいなかったので、母子2人の家庭状態だったのです。私は知らずかかえこんでいた怒りを中学部活の剣道で放っていたような気がします。

中学3年時のある日、母と今までにない大ゲンカをしました。その時は母にたたかれた分だけ、初めて私も母をたたきかえしました。そして私は台所の包丁に手をかけそうになりました。

この時理性でブレーキをかけられて本当によかったと思います。同時になぜこの母は、自分の娘をここまで追いつめるのだろうかと、ようやく母の毒に気が付いたのです。そしてこれを境に、母が私をたたくことはなくなりました。

 

<ポイント>

・親が怒って子供を必要以上にたたくのは、親のメンタルに問題がある

・たたかれて育った子供は不安症になりやすいし、IQが下がることもあるという

・将来の親子関係は悪くなる可能性が高い

 

CAが子供の頃の夢だった

 

私の中学時代はテレビの「兼高かおる世界の旅」やラジオの「JALジェットストリーム」が大好きでしょっちゅう見たり聴いたりしていました。

しだいに海外を飛び回る仕事につきたいと考え、当時スチュワーデスといわれたCAになりたいと思って英語に強い学校を選んで進学しました。そしてその後短大英文科に進みます。在学中は何かの役に立つかもしれないと中学校教諭2級普通免許(英語)を取得しました。

就職は夢を叶えようと、大手航空会社CAの試験を1社受けますが、残念ながら落ちました。その時受かった同級生はみんな背が高く、手や足に傷の無い綺麗な子たちでしたので、自分に無いものをもっている彼女たちがうらやましかったです。

結局当初全く考えていなかったのですが、会社に活気があったので証券会社のOLになりました。バブル景気の頃でした。そこでは一般職で経理事務を経験することになりました。

 

家族がバラバラになってしまった日

 

短大を卒業する頃には自分の意思とは関係なく、実家で一人暮らしをするようになっていました。父は香港に転勤、母は大阪の実家の祖父母の介護に行ってしまったのです。

ですから就職活動、成人式、すべて一人で乗り越えました。この時期に親友エミの存在はとても温かく、そのお母さんに就職活動で着る服や小物のアドバイスをしてもらって一緒に買いものに行ったことは、今ではすごくいい思い出であり、本当に助けられました。

実は母の実家には、祖父母と母の3歳上の姉の伯母夫婦と、そして母の10歳年下の弟ケンちゃんが住んでいました。

ケンちゃんは生まれた時から小頭症の第一級身体障害者で自分の身の回りのことが一切できない、1歳児のような人でした。(障害は自宅出産時の事故によるものと聞いています。)1歳児のようなといっても体は大きくなるので、若い頃のケンちゃんは力が強くて周りはケアが大変だったようです。

ケンちゃんは20歳までは生きられないだろうといわれていたのですが、伯母がずっと一緒に住んで、ずっと世話をしていたので、昨年70歳で亡くなるまで生きていました。

信じられないことに、昔は身体障害者の弟がいるというだけで、母も伯母も学校でいじめられたそうです。そんな苦労を一緒にしているせいか二人はとても仲が良いです。

これは母が私との家庭を、心理的にも物理的にも離れることが多い理由かもしれません。ですが母は若い時からずっと伯母のサポートを続けていたので、私は子供ながらに横でみていて偉いなあと思っていました。

きっと一度も帰国しなかったブラジル時代は母にとって相当苦痛だったんだろうなと思います。

私の祖父母は、ケンちゃんがいるからという理由で実家から出なかった伯母に、それはそれは頼っていました。後年その祖父母は生活習慣病を悪化させてしまい、脳梗塞や癌で相次いで寝たきりになってしまいます。

まず祖母が倒れたのですが、その時点で母が介護のために伯母のいる実家に同居することになりました。父もほぼ同時に転勤となり、私の一人暮らしがはじまったわけです。

 

体験をたくさんしようとしたOL時代

 

一人暮らしの私は自分の収入で多種多様な習い事をしました。テニス、ゴルフ、スキー、茶道、華道、エアロビクス、通訳ガイド講座などなど。できるものは何でもかじりました。

極めたいと思うものを見つけることはできませんでしたが、様々な世界に触れることはとても楽しかったです。学生時代や会社員時代の友達と、国内外いろいろな所へ旅行もしました。

しかしながら良いことばかりではなく、夜に自宅にかかるいたずら電話や不審者出現など、女の一人暮らしならではの神経を使うことが多々ありました。また仕事で帰りが夜10時を過ぎることも多かったので、開いてる飲食店が無くてずっと自炊をしていました。

今のようにインターネットやLINE、近所にコンビニがあったらよかったのになと思います。

私は次第に仕事のストレスや人間関係の悩みから、食べては吐くという状態になっていきました。そして自分の思い込みによる人間不信と不安とで、精神的にすごく参ってしまい、激やせして貧血をよく起こすようになりました。

それで一旦仕事を辞めて、香港の父の所に転がり込むことにしました。

ちょうどその頃に祖父母も相次いで亡くなり、母も香港に来てまた3人で暮らすようになります。以前の母娘関係と違って、むしろ母が娘のような関係になっていました。

 

<ポイント>

・若い時の収入は、いろいろな体験に使うとのちのちの良い経験となる

・仕事や給料よりも、自分の精神安定や体調管理の方が大事

 

香港に移り住んだ25歳の転機

 

香港に渡ったのが25歳の時で、幸いにも人の紹介で仕事はすぐに見つかりました。なんとCA試験に落ちた会社の、香港支店でした。

日本では職場の上下関係や横関係にすごく気を使って、嫌なことやしんどいことを我慢して引き受けることが多かったのですが、それらが香港では一気に無くなり、とても自由になった気がしました。

また、日系企業で働く香港人の多くは日本語を勉強しており、つたない私の英語を受け止めようとしてくれて相互に良い関係を築けた気がします。一緒によく飲茶もしました。

エネルギッシュな街なのに老人や子供に優しく、多様な人種、言葉、宗教が混在する香港はとても面白く居心地が良かったです。

旅行も香港発だと安いので、たくさんの面白そうな場所に行きました。数えてみると20か国以上旅行していました。

今振り返るとこの時期はあまり先のことを考えずにその時やりたいことに夢中で、思う存分独身を謳歌していた時期かもしれません。

香港生活では出会う日本人も案外多くて同世代の食事会もよくありました。ある男性と知り合って1年半ほどつきあったのちに、結婚しようということになります。27歳のときでした。

 

思うように進まない人生

 

しかし結局その人とは、婚約直前に破談になります。日本のご両親にご挨拶に行ったのですが、しきたりを重んじるそこの家風に私は自由人すぎて合わないと思われたのでしょう。その男性は長男だったので激しく反対されたようです。

ひとしきり傷心したあとの私の立ち直りは案外と早く、自分はもう結婚することはないかもしれないと本気で考えて、お金を貯めておこうと思い始めました。そんな時に香港内の別の仕事に誘われます。日本で勤めていた会社の関連会社でした。

 

<ポイント>

・自分のプライオリティーをしっかりさせる

・好きなことややりたいことを素直にすぐやる

・チャンスは飛び乗る

 

衝撃のカンボジア ~キリング・フィールド~

 

30歳の頃に会社の友達と、カンボジアのアンコールワットを訪れました。フリー旅行で現地では男性ガイドさんがついてくれていたのですが、そのガイドさんに勧められてキリング・フィールドにも行くことになります。

何の知識もないまま行ってしまいました。

私達3人だけでポル・ポト政権が行った大量虐殺の資料館をみたあと、茹るような暑さの何も無い野原(当時。今は通路が作られているようです。)に出ました。ボコボコと空く大きな穴をいくつか見て回っていたのですが、白い小枝が足元にたくさん散らばっていて、それを気づかずに踏んでいました。

突然、今踏んでいるものが人骨だとわかった瞬間、ものすごい衝撃を受けました。

ガイドさんから残虐な悲しみの歴史を直接聞き、彼自身も幼少期に国外に逃げたこと、親戚に犠牲者がいたことなどを教えてもらいました。たくさんの頭蓋骨の慰霊塔も見てその晩は眠れなかったです。自分の無知にも恥じ入りました。

 

そして翌朝、自分は近い将来子供を産もうと決心していました。

 

私はキリング・フィールドに立っているときに、「生命を途絶えさせてはいけない、自由を与えてあげて」という声が聞こえたような気がしたのです。

その後ほどなくして友人の紹介で、一人の日本人会社員と香港で知り合います。のちに夫になる人でした。お互い親からのお見合い攻勢が激しい時だったので、勢いで3か月で結婚を決めていました。結婚してからお互いを知るような生活だったので、よく意見がぶつかりました。

 

初めての出産は香港で

 

1人目の子供は香港で生まれました。しかし出産直後に夫は中国内地へ単身赴任となり、別居となります。私の出産を見届けた両親も、老後支度に日本に帰国してしまったので、子供との2人暮らしになります。

でも、運よく近所には日本人親子が多く、同じ年齢の子供を持つ母親数人と知り合うチャンスにも恵まれたので、お互いの家を行き来したりして精神的にとても助かりました。

2年後2人目の子供を妊娠した時、相変わらず夫は単身赴任中でたまにしか帰宅しませんでした。長女の世話のこともあるので、今度は日本で出産しようとお腹が大きくなってから大阪の親元へ一時帰国します。

そして無事に次女が生まれて香港に戻った直後に、なんとSARS(重症急性呼吸器症候群)騒ぎが起きてしまいました。街はパニックを起こしており、2人の子供を抱えて外出することもはばかられ、スーパーへ買い物にも行きづらくなりました。

次第に日系企業が家族を帰国させるところが増えてきて、私も夫を中国内地に残したまま子供たちを抱えてまた帰国しました。数週間してSARSが収まったので、再び香港に戻ると、今度は1年もたたずに家族全員で東京に本帰国となりました。

それはちょうど、香港在住14年が経った時でした。

 

帰国直後も大変でした。

 

東京の賃貸アパートに入居したその日に次女が原因不明の高熱を出し、夜中に熱性痙攣のあと呼吸がとまったような状態になったので救急搬送しました。しかし大学病院のそこでは、乳児にありがちな突発性発疹症だろうという簡単な診断で帰宅させられました。

しかしその後も次女の熱は43度まで上がり、ミルクもほとんど飲めずにどんどん衰弱するので、翌日近所の人に相談して評判の良い小児科を教えてもらい、そこにすがる思いで駆け込みました。

検査結果でやっとウィルス性の病気も併発しているとわかり、すぐに処置をしてもらって薬を受け取り、ようやく次女の容体は安定しました。実に子供を失うかもしれないという恐怖を感じた時間でした。

そのアパートの日々の生活が落ち着いてきた1年後、また引っ越すことになります。階下に恐いお兄さんがいて、日曜昼間に子供達が家で遊んでいた時に、「うるさい!」と怒鳴り込まれたためです。

どうせ引っ越すならと、神奈川の少し広い家に移り住んだのですが、この時期の小さな子供達を抱えての引っ越し続きと、次女が生後2か月からアトピー治療を受けていたことは、私にとっては体力的にも気力的にもキツイものがありました。

そして少しずつストレスがたまっていたのでしょう。ある日急に原因不明の発疹が、1つ、2つと複数個顔にできるようになり、2年ほど治療することになりました。

新しい土地で長女が小学校に上がり、やれやれやっと落ち着けるかと思っていた矢先、今度は夫が転職して大阪に行きたいと言い出します。1年半でまた家族でお引っ越しなわけです。行き先が実家のある大阪だから頑張れました。

 

<ポイント>

・海外や親元から離れている場合、同じ年齢の子供を抱えるママさんコミュニティは心強い存在

・幼い子供をかかえての引っ越しはかなりのエネルギーを使う

・病気で初めの診断に違和感を感じたら、躊躇せずにセカンドオピニオンを求めること

・SARSのようなパンデミックからも恐いお兄さんからも、まず逃げることを考える

 

まさかのミッドライフクライシスに突入!?

 

大阪に来てしばらくして次女が小学校に上がると、私はバイトを始めます。家計を助けるとともに、自分自身の世界を広げたかったからというのもありました。

妻、母、バイト、学校のPTA活動、そして勉強。その時医療事務の通信講座を受けていました。バイトは1度転職して合計2社のクレジット会社を経験しました。自分に多面体を作りたいとあがいている時でした。

しかし40歳台後半、いつの間にかミッドライフクライシス(中年の危機)におちいっていました。更年期や夫の不貞疑惑が重なったからだと思います。

うちは夫婦間で結婚記念日を祝ったり、誕生日を祝うということがありません。子供達のことは普通の家庭のように祝っていますが、夫婦間はとても淡泊です。友達に仮面夫婦だねと笑われたこともありました。

 

いろんな形の夫婦があるよね

 

私たち夫婦の形がこんな感じなのは、結婚生活が始まってまもなく夫が単身赴任となり、ずっと別居だったからかもしれません。東京や大阪での生活も夫は長期出張や深夜帰宅が多く、不在がちでした。

この時期は自分の精神が沼にずぶずぶ入っていくような感覚で、どうしていいか全くわからず、ひたすら本を読む毎日が1年ほど続きました。

選んで聴く曲は「泣きたくなるほど美しい曲」のような繊細で暗めの曲が多かったです。唯一、その時習っていたホットヨガをやっている時間が幸せを実感できる時でした。

しかし子供たちは母親の状態に構わずどんどん成長していきます。そんな時に長女が原因不明の腹痛をよく起こすようになり、いろいろ検査してみると腹部に腫瘍があることがわかりました。それは良性のものでしたがガン化するおそれや、捻転して激痛を起こす可能性があったため、切除が必要となり入院することになりました。

その後も父の癌、母の持病のめまいの再発、親友エミの癌、夫の単身赴任と事は次々と起こり、徐々に自分の目が覚めていく感じでした。

 

<ポイント>

・気分が落ち込んでいる時は、どんなに美しくても暗い曲を聴き続けないこと

・乱読と併読は、その時必要な心に響く言葉に出会うことがある

・子供の腹痛は精神的なものと決めつけないで、徹底的に調べた方が良い

 

どうしてエデンさんのファンクラブに入ったの?

 

結婚しないかもと思って貯めていたお金は、10年前から投資資金になりました。

一部を大手証券会社に預け、言われるがまま国債を買ったり投資信託を買ったり乗り換えをしたりしていましたが、10年経った今ではこの資金は増えるどころか減ってしまっています。

数年前トルコリラ建て債券の投信を買って、半分の価値になってしまったのです。結局その投信は半分の価値のまま償還されてしまいました。全くアベノミクスに乗っていなかったわけです。

また4年ほど前に投資仲間が欲しくて日経225オプションのテンプレート式投資法という塾に入っていたのですが、投資資金が半分になったのでやめました。その時の仲間も散々な結果だったようです。

他力本願だった自分にようやく気が付いて、自分で投資技術を身につけようと、初めはラジオや動画サイトで株式チャートを移動平均線を使って読むという方法を学んでいました。

そんな時にエデンさんの動画を見つけたのです。

 

エデンさんってすごい人だなと思い、他の人生投資家Programの動画も見ていくうちに、「なぜここまで余すことなく、いろいろなことを人に教えてくださるのだろう」と感激したのと、自分がすごく世間知らずなことにショックを受けて、お勉強と思ってファンクラブに入りました。

 

<ポイント>

・他人にお金を増やしてもらおうと思っていては痛い目に合う

・株式トレードの成功と失敗は、自分の心の奥が反映される

・自分軸がぶれれば投資は大きく失敗する

・株式チャートは必ず月足と週足を見ること

 

自分のことがよくわかっていなかった自分

 

ファンクラブに入ってからいろいろなことを考える機会を得ました。自分は何者にもなれていないことに気づき、自分がどうしたいのか、どうなりたいのか深く考えました。

自分を少しずつ掘り下げてみると、私の原点はキリングフィールドで子供を生もうと決めたことです。夫に家計を支えてもらって2人出産できたこと、子供たちは元気に育っていて私の幼少期からの様々な経験は全て子育てに生かされました。

私は別に何者かにならなくてもいいじゃないか、自分の夢はすでに叶っているじゃないかということにようやく気がついたのです。

ありがたいことに今の私は誰にも束縛されない心の自由があります。わだかまりのあった雑多なことがやっと払拭できて、両親や夫や周囲に感謝ができるようになりました。

 

1つ目のブレイクスルー

 

昨年までの私だったら、ネットで自分自身の考えを表現するということはまるっきり考えられなかったです。ネットの世界は怖いところと感じていて、自分をさらけ出すことは恥ずかしいと思っていました。

ですがファンクラブに入って仲間の力を借りてSNSで川柳や俳句を詠んでみたり、あるいは想いを言葉で表現したり、はからずもこうしてブログ記事を書いたりするようになりました。そして気が付くと実生活で人との間に壁を作りやすかった自分が、いつの間にかいなくなっていました。

最近まで働いていたコールセンターでは副業している人がほとんどで、俳優、料理家、ベビーシッター、ボクサー、ヨガインストラクターなどいろいろな人と出会えました。

私はいつの間にかどんな人に対しても、自分からスルリと話せるようになっており、仕事上の会話力も上がっていた気がします。

こうして私がファンクラブで学んでいることは全て子供たちに伝えていき、これからも私を通して子供達が何か得てくれればいいなと思っています。そして自分自身も今後も成長していければいいなと考えています。

ファンクラブではともに学んでいく仲間がいて、とても刺激を受けています。自分の日々の考え方が少しづつポジティブに変わってきて成長していることが実感できています。

よかったらのぞいてみてください↓

 

また、エデンさんの「人生投資家チャンネル」の限定動画はこちらから見ることができます↓

 

<ポイント>

・ネットでのアウトプットは実生活にも生きてくる

 

豊かな人生ってなんだろうな?

 

私はずっと「豊かな人生ってなんだろうな?」と考えてきました。

伯母の話しに戻りますが、伯母は私にとって絶対の安心をくれる2人目の母のような存在です。母が般若で伯母が菩薩。昔の私の印象です。

若い時からケンちゃんのお世話で家を空けることがほとんどなかった伯母は、家に鎖でつながれているように私には見えていました。

簡単に自由に旅行する自分に、多少後ろめたさを感じることがあってそれを伯母がどう思うか聞いてみたことがあります。

伯母は「自由は憧れるし考えればきりがないけれど、弟は何より大事だし弟を世話することが私の使命で、私の人生はこういう運命だから」と遠い目をして淡々と言っていました。

母方の祖父はケンちゃんの面倒は家族で見るべきと考え、他者の手を借りることや障害者手当を受け取ることを拒みました。伯母はそれに応えますが、祖父母は晩年2人とも寝たきりになり介護が必要になります。

祖父母にとってそれが不本意だったことは承知ですが、そもそもケンちゃんがいるのになぜ健康体であり続けようと努力しなかったのか、私にはずっと疑問でした。

 

祖父たちは何を考えていたのか?

 

祖父母が相次いで亡くなるまでの5年間は、母と伯母はまるで出口の見えない長いトンネルに入ったかのようでした。祖父母とケンちゃんの3人を介護する生活は、伯母と母の自由を完全に奪うことになりました。

父方も一般的な家庭ではなく、極貧を経験しています。父は3人兄弟の長男に生まれて大阪大空襲を経験しました。一家は戦争で全てを失い祖父は働かなくなり、次男の弟も今でいうニートだったため 長男の父と三男の叔父の大学の奨学金は生活費になり、さらにバイトを重ねていたそうです。

父方の祖父と次男の2人が亡くなるまで、私の父はこの世帯の生活費を出していました。(父方の祖母は早くに亡くなりました。)

両家の祖父がやっていたことは、結局は自分の子供たちに甘えて寄りかかるものでした。そこに大人の狡さや不甲斐無さを私はずっと感じていました。

母方の祖父は明治生まれのとても頑固な人でした。祖父の「~するべき、~しなくてはならない」はいろいろなところで、今でも母や伯母たちをコントロールしています。良い時はそれが家族の結束になりますが、悪く働けば身内以外の他者に対しても強いることになってしまい、摩擦を生み出しかねません。

相手も自分もしんどくさせてしまい、自分を孤立化させることになってしまうと考えます。

エデンさんのいろいろな動画を聞いているうちに、私は人に対して「~するべき」という考えを押し付けることはやめようと思いました。それは夫婦関係にも、親子関係においてもです。

人生投資家Programにある「固定化を避ける」ということは、ここにも生きてくると思いました。

 

<ポイント>

・人は自分で気がつかない限り変わることはできない

・自分の「~すべき」という考えを人に押し付けて、コントロールしようとしない

・常に時代に即した柔軟な考えを持った方が、自分自身が生きやすい

 

これからのチャレンジ

 

街に出るとお店で急にキレる老人や、しかめっ面をして歩く老人を見かけることがあります。みんながみんな、人生終末で喜びに包まれているわけではなさそうです。

私の両親と義父母はみんなすでに80歳を超えていますが、自分達の生活を自立させており、一切私たちの援助を必要としていません。

そして「今はまだ手出し無用。ジジババ達でできるところまでやるからね」と頼もしいかぎりです。

これはすごく有難いことで素晴らしいことで尊敬することだと思います。彼らが日々積み重ねてきている努力は言うまでもないことです。

日本の未来は未曾有の高齢化社会に向かいます。私達世代がこれから向かっていく先に豊かだな、幸せだな、よかったなと思わせるものは何なのか。大好きな日本で楽しく生活を続けていくには「今」どうしたらいいのかを、私は高齢の親たちの背中を見ながらゆっくり考えていこうと思います。

私達世代が心身ともに健康であり、豊かに発想し続けていれば、子供達世代の負担を減らすことができるかもしれません。そうあってほしいと考えています。

 

<ポイント>

・豊かな人生ってなんだろうな~?どうなりたいの?どうすればいいの?と、いつも自問自答をする

・身近な人の幸せを願って自分からまず何か貢献してみる

 

お読みいただき、ありがとうございました。(終)

 

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